Shiodome Urban Design Center

アーカイブ製作事業 「汐留の歴史」パネル作成

パネル写真
汐留イタリア街パネル

江戸時代

汐留の誕⽣

日比谷⼊江の埋め⽴ては17世紀初頭から始まります。⽇⽐⾕⼊江の埋め⽴て時に外堀まで海⽔が流れ込むことを防ぐ堰が建設され、その⼀帯が “汐留” と呼ばれるようになります。

汐留一帯は武家地として整備されます。北から、⿓野藩脇坂家、陸奥仙台藩伊達家(松平陸奥守)、出⽻⼭形藩保科家(後会津藩保科家(松平肥後守))の屋敷地が置かれました。

汐留周辺の都市構造

東海道は江⼾初期に整備され、汐留⻄部に位置します(現在の第⼀京浜(国道15号線))。沿道には銀座⽅⾯から延伸した町⼈地が形成されました。町⼈地は東海道沿道以外に(現在の桜⽥通り)の沿道にも集積していました。

愛宕下は武家地として旗本・御家⼈の屋敷が集中していました。愛宕神社から増上寺までの地域は寺社町として整備され、多くの寺社仏閣が建ち並びます。

現在の浜松町駅周辺は汐留同様に埋め⽴てられ、武家地が整備されます。芝離宮は紀州徳川家の拝領地が置かれました。

明治初期

鉄道と⾺⾞鉄道

明治政府は1869(明治2)年に⽇本初の鉄道敷設を決定します。翌年3⽉から鉄道⼯事が始まり、1872(明治5)年に新橋―横浜間で鉄道が開通します。同じくして“新橋停⾞場”が汐留町⼀丁目(現東新橋⼀丁⽬北部)で開業します。

新橋停車場から銀座や浅草等への移動手段として馬車鉄道が整備されます。汐留町⼆丁⽬(現東新橋⼀丁⽬南部・東新橋⼆丁⽬)に⾺⾞鉄道会社が置かれ、⾺⾞鉄道は周辺地域を循環する交通網として活⽤されました。

汐留周辺の都市構造

東京府が1868(慶応4)年に設置され、⼾籍管理を前提にした⾏政単位が編成されます。1871(明治4)年の⼤区⼩区制では芝⼝⼀丁⽬(現新橋⼀丁⽬)と芝浜松町⼆丁⽬(現浜松町⼆丁⽬)に⼩区扱所が置かれました。⼤区⼩区制廃⽌後、1878(明治11)年に芝区が誕⽣し、芝公園地⼤⾨通の浄⼟宗安養院に芝区役所が開庁します。

近代陸海軍の創設によって汐留周辺に軍の機関が配置されます。現在の築地市場跡地、⽇⽐⾕公園、東京慈恵会医科⼤学、愛宕⼆丁⽬(⻘松寺)、芝公園⼆丁⽬(芝⼭内天神⾕)が軍⽤地となり、軍の教育機関や⼠官の養成機関が設置されます。

芝離宮は廃藩置県以降、有栖川宮家の所有地でした。その後1875(明治8)年に皇室(宮内庁)所有となり「芝離宮」と称されるようになります。

関東⼤震災前

貨物ターミナル“汐留駅”

新橋停⾞場は、1909(明治42)年に開設した烏森駅へ旅客駅の業務を移⾏します。新橋停⾞場は“汐留駅”に改称し、貨物専⽤のターミナル駅となります。

⾼架の旅客駅として開設した烏森駅は、1914(⼤正3)年の東京駅開業に伴い“新橋駅”と改称します。7〜8分に1本の電⾞が運⾏し、乗⾞⼈員数は約260万⼈と上野駅の次に多く利⽤されていました。

汐留周辺の都市構造

烏森駅(新橋駅)と同じくして浜松町駅が旅客駅として開設します。また明治初期に整備された⾺⾞鉄道は電気の普及によって路⾯電⾞(東京市電)に移⾏しました。路⾯電⾞は⼤通りに路線を整備され、旅客駅や汐留駅前に乗換場を設置されました。

軍用地は明治後期になると港区や地⽅に移転していき、汐留周辺地域には唯⼀海軍⼤学校と海軍会計学舎が現在の築地市場跡地に置かれました。海軍省⽤地であった芝離宮は表⾨前(現在の浜松町駅前)を埋め⽴て「芝離宮浜崎町御料地」となります。陸軍操練所であった⽇⽐⾕公園は1903(明治36)年に開園します。

芝公園地⼤⾨通の浄⼟宗安養院にあった芝区役所は1886(明治19)年に愛宕町三丁⽬六番地(現在の御成門交差点近く)へ移転し、関東⼤震災後まで存在します。